馬のいる場所を訪ねて
  ~第一話~シャングシャング馬の復活

時事関連

=北越の馬祭り=

 新潟競馬場から北北東へ約30km。鳥坂山を背にして胎内川を見下ろす高台に、空海作と伝わる馬頭観音像をご本尊とする鳥坂神社が鎮座する。

 創建は平安時代の811年。その後の戦乱に紛れてご本尊が一時、行方不明となったものの、地元の下赤谷地区の住民が発見し、「馬頭観音堂」として1713年頃に再び祭祀されることに。江戸時代末期の1822年に社殿の修復工事がが完了すると、五穀豊穣と牛馬の安全の守護として、多くの崇敬者を集めるようになります。

 そうしたなか、失われていたご本尊が発見された日とされる旧暦の3月18日(現在の4月18日)に春の例祭が行われるようになり、北越地方では珍しい牛馬にまつわる祭典として定着。1870(明治3)年に鳥坂神社と改称された後も継承され、ますます発展していきました。

 お祭り当日は、馬飼育農家は作業を休み、馬を連れてお参りに参加。その中に、裸馬だけでなく、美しく装飾した鞍に鈴をつけ、馬装も綺麗に整えられた馬が練り歩くようになるわけですが、その鈴の音から「シャングシャング馬」と呼ばれるようになります。最盛期には近隣から数十頭のシャングシャング馬が列をなして歩き、道を挟む軒先には土産物屋が並んで、近郷の町村からも人々が訪れて盛大に賑わったとか。

 ただ、こうしたお祭りの歴史は、実は地元の高齢者の懐かしい記憶として語り継がれてきたもの。現在ではすっかり目にしなくなった光景です。
 太平洋戦争後の高度成長期に、農機具の機械化が急速に進むと、日本の農作業の風景は激変。良き働き手として活躍した牛馬達も必要とされなくなっていきます。また、昭和42年に新潟、山形地方を襲った羽越水害の復興に追われるなどして、その頃から祭礼そのものが行われなくなったよう。
 以来、約50年もの間、伝統は途切れてしまっていました。

=伝統を繋ぐもの=

(松原ステーブルスの代表、松原正文氏)

 1人のホースマンが腰を上げたのは2015(平成27)年。新潟県競馬で元騎手を経て調教師となり、県競馬廃止後は金沢に移籍してホシオー(03、04年度の金沢競馬年度代表馬)などを管理した経歴を持つ松原正文氏でした。40代半ばを過ぎた05年に調教師を廃業。地元に戻って乗馬クラブ兼養老牧場として〝松原ステーブルス〟を開業します。

 「調教師は馬に食べさせてもらっています。子供を養うのもそうですし、普通の社会生活が送れているのは全部馬のおかげです。それなのに、競走馬じゃなくなった途端、その後のことに自分が何もしないでいることに、いつ頃からか、ずっと複雑な思いを抱いていたんです。私一人がやれることは限られていて、微々たるものでしかないのはわかっていますが、でも、自分ができるうちにできる限りのことをやろうと思って」

 競走馬の引退後について、深く思い悩んで転身を決意した松原氏が、市内にある馬頭観音を祀る神社の馬の例祭の復活に着手することになるのは自然の成り行きだったのか。胎内市観光協会の須貝勝男氏とタッグを組み、〝復活年〟と銘打って〝シャングシャング馬<馬頭観音祭>〟を開催したのが2015年4月18日でした。

=復活は3頭から=

 とはいえ、練り歩く、と言っても、距離は2kmほど。2015年は参加した馬は松原ステーブルスに繋養されている3頭のみで、スタート地点から鳥坂神社にお参りし、同じルートを通って戻ってくるだけでした。見物客も300名に満たない規模。
 それでも練り歩きの後に、境内に向かう石段脇に設けられた急坂を馬で駆け上がる神事としての〝駆け上がり〟をクライマックスとして行うなど、復活への大きな〝一歩〟になったことは間違いありません。

 翌2016年には参加馬が5頭に増え、3年目の2017年は8頭に。見物客も400→500人とj徐々に増えていきます。
 4年目の2018年は地元メディアの注目度も上がり、見物客も600人超。翌2019年には市道を通行止めにして見物客の安全を確保するとともに、練り歩きのルートを変更(現在は往路が胎内川沿いにある道の駅「胎内」河川公園から市道の下赤谷線を経て鳥坂神社。復路は鳥坂神社を下山し、往路で使った市道を横切って樽ケ橋遊園裏の遊歩道に入り、胎内川沿いを通って河川公園ゴールのルート)。近くの黒川小学校の生徒達には練り歩きの引き馬を体験してもらい、参加型イベントの性格を取り入れるなど、祭りとしてのバリエーションも広がっていきました。
 ところが、ようやく軌道に乗ってきたか、と思った矢先に襲ってきたのが、そう、新型コロナウイルスでした。

=伝統の継承に向けて=

(練り歩きのスタート前)

 全国各地で開催されているお祭りの常として、いかに規模が小さくても、いわゆる〝三密〟が避けられるわけではありません。2020、2021年と中止を余儀なくされ、またしても存続の危機にさらされることになりましたが、今年(2022年)、3年ぶりに開催されることに。再度の〝復活〟となりました。
 開催日は例年通りの4月18日。木曽馬、寒立馬、ポニーら10頭がさまざまに着飾り、鞍に装飾をほどこして、鈴を慣らしての練り歩きを終えて、神社境内下に集合。そこから階段脇の坂を駆け上がっていく。

その〝駆け上がり〟を撮影しようとするカメラマンの列もいつにも増して多かったですが、マスク着用、適当な間隔を開け大声を控える、などの注意喚起が終始アナウンスされるなど、徹底した感染対策が取られるなかでスタート。

 駆け上がりは引き馬で行われる馬もいますが、クライマックスでは文字通りの〝駆け上がり〟も披露されました。

(右上に見えるのが社殿。左手の坂路で午前と午後に〝駆け上がり〟が行われた。)

 境内へと続く石段脇に設けられた坂路コース。画像にある白いチップの敷かれたところを真っすぐ進むコースと、途中から右に急カーブを切る高難度のコースとに分かれている。

下の画像は難コース。

(2箇所の急カーブを有する難コースで〝駆け上がり〟を披露する松原氏)

 こちらはポニーの〝引き馬〟での〝駆け上がり〟。新発田農高の生徒さんが挑戦しましたが、なかなか言うことを聞いてくれません……の図。

(新発田農高の生徒さんによる引き馬での駆け上がり体験。こういうアクシデントも手作り感満載)

=北越の春の到来を告げるお祭りに=

(お祭りの開始にあたって挨拶する須貝勝男氏(右)と松原正文氏)

 胎内市観光協会の須貝氏の言葉です。
 「新型ウイルスが終息すれば、と思い続けてましたが、どうもなかなかなくなるものではないようだ、ということがわかってきましたし、それならばできる限りの対策を講じたうえで開催することができないかと考え、今年の復活に舵を切りました」
 とのこと。
 お祭りの開催そのものが地域の活性化を促し、人々に元気や勇気を与えることにもつながってくる。そんな思いだった。そしてお祭りが終わって、の感想も伺ってみた。
 「ようやく軌道に乗ったばかりの、まだまだ小さいお祭ですが、いずれ北越の春の到来を告げるような、胎内市を代表するようなお祭になればいいな、と思っているんです」

 そう、今のところ規模は大きくないどころか、小ぢんまりしていて、知る人ぞ知るお祭りなのかもしれません。ですが、須貝氏が言うように、胎内市では「胎内を代表するお祭りへ」くらいの気概で取り組んでいて、実際にテレビ、新聞各社の取材も増えましたし、上述した通り参加する人も、見学に訪れる方も増えています(何しろ親密感溢れるお祭りでして、場合によっては馬に乗せてももらえますから)。
 この地方では、一年の農作業の始まりの目安になる日として、広く4月18日が定着しています。だから鳥坂神社の例祭が行われるようになったのか、例祭の日をその日にしたのか。それこそ定かではありません。でも、来年も、その次の年も、4月18日にシャングシャング馬の練り歩きが行われればと……。

 そして、それこそゆくゆくは新潟競馬場のイベントなどにも姿を見せてくれるようになれば、〝新潟の馬文化〟として更に発展していくこともありうるかと。
 そんなようなことを願ってやみません。

道の駅「胎内」から河川公園越しに胎内川を見下ろす。五頭連峰の雪解け水をはらんだ春先の水量は豊富で勢いも激しい。

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