JRA競馬博物館特別展生誕130年記念~尾形藤吉『大尾形』の系譜vol.3

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大馬主との縁

現在につながる名馬達

 藤吉にとって3頭目となるダービー馬クリフジは、〝初モノづくし〟ということでフレーモアに引けを取らず、唯一無二ぶりでは歴史的な一頭に数えられる。

 戦争末期の1943(昭和18)年に、牝馬として史上2頭目となるダービー制覇。通算成績11戦11勝は、JRAにおける無敗の連勝記録。しかもその中にはダービー、オークス、菊花賞の変則三冠が含まれる。オークスが秋に開催されていたから実現したことだが、時代が替わった現在では、恐らく〝絶後〟の事例になるだろう。主戦騎手の前田長吉(映画「日本ダービー 勝負」で菅原文太が演じた)は史上最年少(20歳3カ月)でのダービー制覇で、現在にいたるまで破られていない。

 クリフジが藤吉の戦前最後のダービー馬なら、戦後最初のダービー馬は9年後の1952(昭和27)年。クリフジと同じ馬主のクリノハナだった。鞍上は藤吉の弟子として、保田隆芳とは双璧を成す八木沢勝美。好位から早め先頭の策で押し切りを狙い、激しい叩き合いの末、その保田の追い込みを封じての優勝だった。

 クリフジ、クリノハナの馬主である栗林友二は、北海道室蘭市の実業家栗林五朔の子息。東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリスに留学。帰国後に父の事業を引き継く。獣医師の資格を持ち、馬術に長けていたこともあって、本業のかたわら馬主、生産者としての活動にも熱心だった。クリノハナは自身が創設した大東牧場産であり、その産駒からはクリペロ、クリヒデの天皇賞馬を輩出している。

国際化の先駆者として

 クリノハナで4度目のダービー制覇を遂げた翌1953(昭和28)年、藤吉は公務としてアメリカに渡航。現地の競馬事情の視察だった。この時に同行したのは、戦前から日本競馬会に勤め、下総御料牧場では競走馬の育成に携わり、戦後は馬事公苑の苑長となる津軽義孝である。

 この視察の印象として藤吉は、アメリカのスピード優先のレース内容について「見習う点がある」とし、「日本の競馬も変化していくべきでは」と自著に記している。明治生まれの、すでに第一人者となっていた藤吉の、競馬に対する飽くなき探求心が窺い知れる話だが、そのことは6年後のハクチカラによって、はっきりした形で競馬史に刻まれる。

ハクチカラの偉業

 ハクチカラは藤吉5頭目(日本中央競馬会発足後は初)のダービー馬で、通算成績は32戦20勝。ダービー後の勝利数13は歴代最多。その中に1959(昭和34)年のアメリカ、サンタアニタ競馬場のワシントンバースデーハンデキャップがある。これが日本馬として初めての海外重賞制覇だった。
 藤吉はこの時の感想として、現地での十分な育成調教期間の必要性をあげており、これは課題として現代にもつながる事案のひとつだろう。そしてまたハクチカラは、引退後に種牡馬としてインドに渡り、かの地のクラシック馬の父となった。まさに〝国際化〟の先駆けと呼ぶにふさわしい

 藤吉6頭目のダービー馬ハクショウも、ハクチカラと同じ西博が馬主。西製鋼社長で、ほとんどの馬を藤吉に預けた。また所有馬を藤吉に預託する馬主の親睦組織〝尾形愛馬会〟を創設するなどして、戦後の厩舎全盛期に藤吉を支えた一人である。

夜明け前に残したもの

 親子三代でダービーを制している千明家は、戦前から自らの牧場の生産馬を個人名義で走らせた〝オーナーブリーダーのはしり〟である。1938(昭和13)年の初代スゲヌマに続いて、二代目のダービー馬となるのが、1963(昭和38)年のメイズイだった。

(現在は生産も行われておらず馬の姿はない千明牧場。しかし牧場はしっかりと整備されており、名門牧場の誇りと威厳を保ち続けている)

 メイズイが生まれた時に、真っ先に見に行ったのが藤吉で、ひと目で「逸材だ」と明言する。その年に千明牧場で生まれたのはメイズイ1頭だけだったが、馬主の千明康は名伯楽の見立てに安堵し、藤吉に預けることを決めた、という。

 メイズイは皐月賞をレースレコードで逃げ切り、ダービーでも逃げて7馬身差の圧勝。2分28秒7は2400㍍の日本レコードを0秒1更新し、ダービーでは従来のレコードを1秒5短縮。初めて2分30台の壁を破った。以後、9年間ダービーレコードとして保持されることになる。
 このことは新時代への〝夜明け前〟として、いわゆる〝スピード優先への転換点〟を指し示す端緒となった可能性を否定できない。

 鞍上は当時26歳の森安重勝。戦後初の三冠のかかった菊花賞で6着に敗れ、暴走気味に大逃げを打った騎乗が批判の的になるが、後にプレッシャーによる体調不良等が明らかになった。藤吉没後の1984(昭和59)年に46歳という若さで急逝したが、中距離のスピード競馬が世界的に全盛の現在、菊花賞の距離適性も毎年、話題に上がること。森安が存命であれば、興味深い話が聞けたかも、と思うと残念でならないし、尾形一門が残した足跡というものを、改めて感じないではいられない。

(文中敬称略)

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