JRA競馬博物館特別展生誕130年記念~尾形藤吉『大尾形』の系譜(vol.2)

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〝尾形会〟の歴史

JRA競馬博物館で開催された〝尾形藤吉『大尾形の系譜』〟のパンフレットには、〝協力〟として「尾形会」の名が記載されている。藤吉の〝系譜〟を語る時に切り離せない「尾形会」だが、これについては後述する。藤吉の人脈にまつわる話は、まず戦前を無視するわけにはいかない。

重要な出会いとともに

 藤吉の両親はともに仙台伊達藩の家臣の家系で、明治維新後に北海道の現・伊達市に入植。農業を営んでいたが、1907(明治40)年に伊達で起きた大火が藤吉にとって最初の大きな転機となる。
 被災の見舞にきた母方の大叔父(阿部哲三=元騎手)の紹介で、新冠御料牧場へ馬術見習いとして修行に出たのである。翌08(明治41)年には目黒競馬を主催していた日本競馬会に所属する菅野小次郎(騎手兼調教師)に弟子入りし、上京後に騎手免許を取得すると2年5カ月の騎手修行を経て1911(明治44)年、一人立ちして本格的にキャリアをスタートする。

 その際に、馬主の多賀三兄弟によるHクラブが運営する厩舎に迎えられた(当時は馬主が厩舎を構えて管理を騎手に委託するか、騎手自身が厩舎を構えて馬主から馬を預かるのが一般的だった)。長兄の一(はじめ)は料亭を経営するような資産家だったが、当時は明治天皇のお召馬車の御者で、宮内省主馬寮に40年以上にわたって勤務することになる人物だった。
 これによって藤吉は宮内省の関係者に結ばれ、戦前の競馬界を牽引する下総御料、小岩井の両牧場にも深い関係を築いていく。厩舎関係者にとって有力な馬主との出会いが重要になるのは、今も昔も変わらない。

 けれども、競馬絡みの人間だけでなく、戦前の貴族院議員や宮家の親戚筋、また経済界の重鎮からの信頼を得られたのには、藤吉本人の〝人となり〟が関係していたことは疑いようがないだろう。つねづね弟子達にも「人として恥ずかしくない行動をすべし」を指導し、その厳しさは徹底したものだったと伝わっている。

 そうした姿を見ていた馬主の中に、藤吉にとって最初のダービー馬であるフレーモアの馬主、土田荘助もいたのであろう。

初モノづくしの物語

 馬主の土田荘助は藤吉の生まれる4年前の1888(明治21)年、秋田県平鹿郡館合村の素封家に生まれた。県会議員、衆議院議員など数々の要職を務めた政治家の顔を持つとともに、動物を愛し、とりわけ馬を愛した。イギリスに渡って繁殖馬を購入するなどして、生涯にわたって競走馬の生産、育成に力を注いだ(と伝わる)。

 そのスケールは桁外れ。1907(明治40)年頃、地元で土田農場を開くと、1913(大正2)年に大正天皇即位記念として、雄物川流域の阿気(あげ)地区の河川敷に1マイルの競馬場を自費で造成。そこで毎年秋田県産馬による大会を開催し、地元の馬産の振興に取り組んだ。

 そうした人物だからこそ、知見を広めるために隣県の小岩井農場に出向くのは当然だったし、父・萬助が貴族院議員だったことから、宮内省に務める多賀一との接点もあっただろう。荘助がほぼ同年代の藤吉と出会うのは、必然だったかもしれない。

 かくして、小岩井農場の種牡馬シアンモアと、荘助が輸入した牝馬アステリヤの間に生まれたフレーモアは、藤吉厩舎に預けられることになる。そして1934(昭和9)年、目黒から府中の東京競馬場に場所を移して行われた第3回東京優駿大競走に出走。不良馬場の中を好スタートから早めに先頭を奪って逃げると、直線も脚色衰えることなく1番人気に応えて優勝。のちにダービー8勝の大記録を打ち立てる尾形藤吉の、初めてのダービー制覇だった。
 それだけではない。フレーモアは日本競馬史上初めてで唯一の秋田県産のダービー馬であり、府中の東京競馬場で行われるようになった初回のダービー馬として名を刻んだ。また3回目とはいえ無敗(3戦)で制したのも、個人牧場生産馬としても初めてのダービー馬。まさに初モノづくしだった。
 ちなみに、この時の2着テーモア、3着デンコウも藤吉の管理馬で、ダービー1~3着独占も初めてだった(現在でも例がない)。

 1922(大正11)~1955(昭和30)年の土田農場の主な生産馬は、フレーモアの他にサンシャイン(17勝)、コールオン(6勝)、フレーモア(7勝)の妹で、第1回オークスを制したアステリモアなどがいる。
 また、土田荘助が運営した競馬場は、地名から〝大阿気〟と命名されるところを、縁起を担いで大上競馬場となった。地元の娯楽施設として住民から親しまれ、県下にとどまらず全国からも人が集まって賑わったという。戦前、一旦開催は行われなくなるが、1953(昭和28)年の春季プログラムが土田家に保存されており、4月25、26日の2日間開催された記録が残っている。

(大雄村史より)

 さて、秋田産フレーモアのダービー制覇から2年後の1936(昭和11)年、今度は名門下総御料牧場産のトクマサで藤吉はダービー2勝目を挙げる。鞍上は伊藤正四郎。前回紹介した映画『日本ダービー 勝負』で高倉健が演じていた騎手である。
 馬主は山中清兵衛といい、兜町で両替商を営んでいたようだ。藤吉との接点は資料が乏しいが、明治に入ってから、言ってみれば最先端の経済人を、馬主として抱えていたことも興味深い。
(文中敬称)

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